福岡県のほど中央部やや西に位置する春日市の内の北西部は、県都にあたる福岡市の内の南東部域と境界を共有し、遥かなる弥生時代の遺跡の数多の出土で知られる場所として存在している。 「無量寺」(むりょうじ)なるこの寺は、そうした場所に含まれる、「須玖」(すぐ)という区域の住宅街のさなかに位置し、山号を“智願山”と称してささやかな伽藍を有する、浄土宗の寺院である。院号、“深広院”。もって、正式名、智願山深広院無量寺。 古くは須玖村という独立した村落として存在していた須玖地区、その内の“野藤”(のふじ)なる小字の場所にある。寺内仏、聖観世音菩薩ならびに地蔵菩薩。本尊「阿弥陀如来」。起源は天文年間(西暦1532年-1554年)に遡るという。歴史 江戸期の儒学者・本草学者貝原益軒の編纂による名のある史書『筑前国続風土記』の「附録」に、“博多住吉村妙円寺に属す。開山は行明上人(ぎょうめいしょうにん)なり。寺内に地蔵堂あり。”との描写がある。すなわち、少なくともこれが記された当時には、博多の「妙円寺」なる寺の末寺であったのである。 天文年間、妙円寺は那珂郡住吉村(現、福岡市博多区住吉)の寺で、この寺の住職であった行明上人が、浄土宗の復興のために、三部経の四十八願に因んで四十八ヶ寺の建立を念じ、次々と寺を造営していった。そのうちのひとつが無量寺であるという。行明は室町の時代(西暦1338-1573年)に生きた僧で、今の福岡市博多区内西部の街区「立花寺」(りゅうげじ)にかつてあった「龍華寺」(りゅうげじ)の開基僧で、その子院であった摂取寺の開基僧でもある。この妙円寺の史料『行明上人伝』には、無量寺ははじめ小倉村(現、春日市域内小倉地区の一部)に創建されたが、火災による荒廃、廃寺を経て、享保9年(西暦1724年)の頃、当時「須玖村」に居を据えていた郡代官格の富永右衛門なる人物によって現在地に再興されたものとの記録が遺されているという(この時期については文政年間との説もある)。 その後時は下り、明治、大正の頃は荒廃が著しかったというが、昭和5年(西暦1930年)にいたって本堂の改築が行われ、昭和50年(西暦1975年)には再度の本堂の大修理と庫裡の新築が行われ、今の姿にいたるという。伽藍 伽藍を構成するのは、本堂、御霊屋、庫裡、および納骨堂。敷地内といえる場所に、学校法人無量寺学園の運営による幼稚園「須玖幼稚園」がある。 明和4年(西暦1767年)の銘ありという「涅槃図」を寺宝として有し、本堂の裏にある御霊屋には、昔須玖の若者が那珂川で魚釣りをしていたときに川底から引き上げたものと伝わる観音像が安置されているという。発見の経過から当寺でなく須玖青年団の所有であるというこの観音像は、子安観音(こやす-)といい、母乳の出がよくなるというので、婦人の参詣が多かったとのことである。境内墓に貝原益軒の側室・宗林保(そうりんぽ)のものがあったと伝わるが、今に遺るのかどうかは定かでない。 所在は福岡県春日市須玖北8丁目59。至近地に地禄天神社、ほど近くに住吉神社などがある。 |