立花寺地蔵堂

2007年1月14日
 福岡県(ふくおか-)の県都福岡市の南西方面は、同県志免町(しめ-)や同県大野城市(おおのじょう-)との境界を据える博多区(はかた-)の区域で、席田平野(むしろだ-)と時に呼ばれる平野が広がっている。

 御笠川(みかさ-)の流れを西に湛え、板付空港(いたづけ-)とも通称される国際港、福岡空港を内に据え置くこの平野は、東方に小山を仰ぎ見る。すなわち、月隈(つきぐま)という、博多区の東の果ての街区とこの平野とを隔てる山である。

 この山の西の麓に立花寺(りゅうげじ)という町がある。

 緩やかな丘陵に形成された集落地である立花寺は、かつてこの地に生きた行明(ぎょうめい)という浄土宗(じょうどしゅう)の僧がこの地に開いた、龍華寺(りゅうげじ)という寺に名の由来を持っている。この寺は『龍華寺の六坊』と呼ばれる6つの子院をこの地に有していた。それらは、真福寺(しんぷくじ)、光福寺(こうふくじ)、攝取寺(せっしゅじ)、法行寺(ほうぎょうじ)、光明寺(こうみょうじ)、金剛寺(こんごうじ)という六ヶ寺であったという。

 立花寺の丘陵地の中ほどには、この町の氏神(うじがみ)であることを思わせる宮、日吉神社(ひよし-)が鎮座しており、そのわずか北西には寺がある。これすなわち、摂取寺(せっしゅじ)―『龍華寺の六坊』のうちの一ヶ寺、今に残った攝取寺の後裔にあたる、浄土宗の寺。

 さて。その摂取寺からわずか北方の一角、緩やかに傾斜する小道の路傍の曲がり角にぽつんと置かれているのが、この地蔵堂である。

亡者を偲ぶ供養の地蔵
 この墓石を思わせる質感の白色の祠は、注連縄(しめなわ)の張られた石塔を脇に、2体の地蔵を安置している。ともに石造り。その背後に置かれた1枚の木板には、次のようなことが記されている。
  • 御地蔵様建立之由来
  •  明治十年(一八七七年)西南の役田原坂の戦ひに於て戦死せし白垣亦吉(享年二十四才)を悼み其の供養の為白垣市平は邸宅内の此の地に地蔵菩薩を建立す。
  •  北九州市小倉南区石田町
  •  白垣志津磨
  •    泰孝
...

田原坂の戦い
 『田原坂(たばるざか)の戦い』は、西南戦争(せいなん-)のうちの戦闘のひとつで、木板の文字にある通りの時代に今の熊本県(くまもと-)の植木町(うえき-)にあたる場所で17日間にわたって繰り広げられた、同戦役中随一の激戦といわれるものである。この戦いの末に、『賊徒』とされた薩軍(鹿児島)勢は官軍の猛攻のなかに敗れ、日本最後の内戦の終焉と『前近代』の総決算に向かって、激動の時代のうねりはそこにひとつの終わりを見ることになった。

遺されしものは今も
 祠の裏手の塀の向こうは今は更地になっている。かつてはそこに、祠を祭祀した白垣氏の宅があったのであろうか。その痕跡を今に伝えるのは、遺されたこの一宇の小祠のみである。

 いずれにしても、斯様。

 戦の中にその生を終えたひとりの青年をそこに弔い、黙祷眼の地蔵菩薩は今も静かにそこにあり、この地に時を刻み続けている。


|福岡県福岡市|紀行道中写真館

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