九州北部、福岡県(ふくおか-)の中央部、筑豊(ちくほう)と呼ばれる地域はそこに広がっている。 近代のこの筑豊地域の歴史は炭鉱(たんこう)を抜きにしては語れないであろう。この地に存在した大小多様なる鉱山群は、筑豊炭田(ちくほうたんでん)との名で知られた。 そうした炭鉱の周囲にあっては、それに係る労働者、すなわち炭鉱労働者が多く暮らした、炭鉱住宅と呼ばれる一帯が形成された。炭住(たんじゅう)との略称で広く知られ、また炭鉱長屋(-ながや)などと呼ばれたことからもわかるように、多くは長屋の団地街として存在していた炭鉱住宅は、1960年代以降の石炭産業の衰退と、それにともなう炭鉱労働者人口の減少などにしたがって、いずれも消滅あるいは縮小の運命を辿ることとなった。取り壊しにより消滅したもの、廃屋として残るもの、あるいは公営住宅や改良住宅へと変貌を遂げたものなど、様々なその後が確認されている。
これは筑豊地域の一区画たる嘉穂(かほ)町(市町村合併により現在嘉麻市)の一角にある町営住宅である。この平屋の町営住宅団地の更に一角には、漆生(うるしお)炭坑跡と刻まれた一棟の碑が建っている。近代日本の幕開けの時期から存在し続けていた漆生炭鉱も、戦後の残照も消え失せようとしていた西暦1973年に至って、完全なる閉山を迎えることとなった。 衰退を経た町の一角にたたずむこの碑は、今に並ぶこの町営住宅が古く炭住として存在した証たる、往時の残影のひとつであるのだろう。 撮影日は2005年10月2日。小雨の続く夏の終わりの、蒸し暑い日の夕刻の姿である。
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