地は九州北方―福岡(ふくおか)の地の中央に位置する大野城市(おおのじょう-)、その市域の南方の山の麓の町。牛頸(うしくび)との名を持つ町区のうちに一箇の社が鎮座している。 社の名は平野(ひらの)神社―通称にて『牛頸神社』とも呼び習わされる、今木神(いまきのかみ)、久度神(くどのかみ)、古開神(ふるあきのかみ)、比盗_(ひめのかみ)を本殿に祀り、その奥宮に大鷦鷯命(おおささぎのみこと)すなわち仁徳天皇を祀り、斯様なる五神を祭神として存在する神社である。 この地を北へと流れる牛頸川の上流の一角に架かる平野橋より西に向かって参道が延び、その境内には二柱の鳥居と社殿をはじめ、宮口右手の『平野の大樟』、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る嚴島社(厳島社、厳島神社)の末社『厳島社』、埴山姫命(はにやまひめのみこと)を祀る天神社、牛頸の戦死者を祀る忠魂社、猿田彦(サルタヒコ)の碑、絵馬堂、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が安置されている菩薩堂に、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)を祀る筆塚なる石塔などが散在しあり、境内奥部の両脇より通ずる小山の上が奥宮の場となっている。
境内由緒書の記述
『正暦二年(991年)京都平野神社の御分霊を筑紫の牛頸に勧請鎮祭する。大竜寺山山頂に奥宮として後に仁徳天皇を奉祀する。本宮の平野神社は延喜式名神大社二十二社の五位にして官幣大社。貞応元年(1222年)筑紫鎮護の祈祷料として御笠(みかさ)、莚田(むしろだ)、志摩(しま)、肥前(ひぜん)、豊前(ぶぜん)に社領を勅賜さる。古代の牛頸は須恵器を伝え作った人々の邑(村)であった。』... 須恵器―この地に渡来の民が持ち込んだものと伝わる技法である。 渡来の民というならば、本殿の祭神たる今木神は渡来の民の王―百済(くだら)の王であるともいわれる。今木神―新たに来た神―。京都平野神社を本社とし―しかるにこの神社、通称牛頸神社は、京都平野神社からの勧請の期より古い時期に既に存在していたとも伝わる、謎多きとされる宮なのである。
所在は福岡県大野城市牛頸3丁目14番。ほど近くに神威教会(西方)、山の神(南方)などがある。
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