森の内部のほど中央部、万葉歌碑の近くに置かれたこの石の祠は、その名を『御笠杜神社(みかさのもり-)』というようである。 この地に名のある郷土史研究家の赤司岩雄(あかしいわお)は、その著書『大野城市巡杖記』において、この祠のことを次のように説明している。 『地誌類には現在の山田区の氏神様「宝満神社」は延宝(えんぽう)のはじめ(1673年頃)に、中御陵(なかごりょう)の「宝満神社」から勧請(かんじょう)したものであると書かれている。それより以前はこの御笠杜神社を産土神(うぶすながみ)として祀っていたものと考えられる。その理由としては『筑前国続風土記』の御笠森の項に「むかしは此森の下に神功皇后の御社ありしが、しはすの大晦日(おおみそか)の夜は、村中の婦女とも此神社に籠(こも)りて夜を明かしけるに・・・・・・」 とあるように12月31日の夜に大つごもりを行っていたのであるが、血気盛んな若者達が悪戯(いたずら)などするようになり中止したということからもうかがえる。また、『筑前名寄(なよろ)』には「御笠郡山田村の内なる社」と記されている。現在御笠の杜の中に高さ1.5m程の石の祠があり「御笠の杜神社」と呼ばれているが、この祠には「天保十一年子(ね)(1840)五月 河波定吉」と刻まれている。御神霊は明治44年(1911)6月1日に山田宝満神社に合祀し境内に元宮さまとして祀られている。このためこの御笠の杜の土地と立木は山田宝満神社の財産になっている。』... |