万葉の古都太宰府市(だざいふ-)の宝満山(ほうまん-)から発して福岡県(ふくおか-)の県都福岡市の市街のさなかを流れゆく二級河川御笠川(みかさ-)は、北に向かって流れたその末に博多湾(はかた-)の海原に注ぎ込み果てる、御笠川水系の本流たる川である。
開山の代は天文13年、すなわち西暦で1544年。いわゆる戦国時代である。
西教寺は御供所町と上呉服町との境界に接する御供所町側の地点、その川縁にその伽藍を有し、古い町の面影を今に留める上呉服町に開く山門、梵鐘の掛かる一棟の鐘楼、その脇の石塔、『萬霊塔』と書かれた小さな万霊塔、庫裡、手水舎、境内墓所、裏墓所、そして川に背を向けて座する本堂をもって、境内を形作っている。
古書に見られる西教寺 江戸期の儒学・本草学者貝原益軒(かいばらえっけん)の編纂による名のある史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』の『拾遺』の『博多寺院』の頁に、この西教寺についての記述が次のように現れる。『真宗東本願寺に属せり。開基の僧を勝願と云。始は中小路町に住せり。[寺説に天文十三年六月廿九日本山證如上人より本尊并實上人の影像を与へられしといへと今傳ハらす。]慶長八年二世明淳今の地に寺を造立す。寛永十九年始て良如上人より寺号を許さる。舊來西派なりしを寛文十一年東派となる。其時本山の家宰より出せる書札あり。此時末寺那珂郡馬出村徳行寺の号を許されし書もあり。今ハ廢せり。』...慶長8年、すなわち西暦1603年。寛永19年、すなわち西暦1642年。寛文11年、すなわち1671年。 真宗東本願寺とは、今に言うところの浄土真宗東本願寺派(ないしその本山)。那珂郡(なか-)馬出村(まいだし-)とは、西教寺から御笠川をわたってしばらく東へいったところの、今の福岡市東区馬出にあった村のことである。所在は福岡県福岡市博多区上呉服町9番4号。近場に濡衣塚などがある。 |