万葉の古都太宰府市(だざいふ-)の宝満山(ほうまん-)から発して福岡県(ふくおか-)の県都福岡市の市街のさなかを流れゆく二級河川御笠川(みかさ-)は、北に向かって流れたその末に博多湾(はかた-)の海原に注ぎ込み果てる、御笠川水系の本流たる川である。 | 御笠川の縁にのぞく本堂の背 | この川は時に、あるいは場合によって、石堂川(いしどう-)と呼ばれることがある。すなわち、博多(はかた)の町とその界隈における、御笠川の歴史ある異称である。この川がこの名で呼ばれる地域をまさに流れ過ぎようとする場所、海原に流れ込み果てようとするその直前といえる場所は、博多の町の東の外れ。流れはそこでその場の両岸に、特に西岸にずらりと並び立つ数多の寺院を据え見ることになる。 流れの対岸に千代(ちよ)の町を見据える、御供所町(ごくしょまち)、上呉服町(かみごふくまち)。そのような場にある寺のひとつが、西教寺(さいきょうじ)である。
 | 上呉服町のさなかを通り山門に突き当たる小路 |
- 寺名:西教寺(さいきょうじ)
- 本尊:阿弥陀如来(あみだにょらい)
- 宗派:浄土真宗東本願寺派(じょうどしんしゅうひがしほんがんじは)
- 山号:恵日山(えにちさん)
- 開基:勝願(しょうがん)
- 開山:天文13年(西暦1544年)
開山の代は天文13年、すなわち西暦で1544年。いわゆる戦国時代である。
 | 本堂 | 本岳寺(ほんがくじ)、入定寺(にゅうじょうじ)、護聖院(ごしょういん)、瑞応院(ずいおういん)、順心寺(じゅんしんじ)、西光寺(さいこうじ)、節信院(せっしんいん)、幻住庵(げんじゅうあん)、そして境内そのものが史跡として国の指定を受けている聖福寺(しょうふくじ)。こうした寺院が軒を連ねて密集するのが、博多の町の東の外れの御供所町、そしてその西にあたる上呉服町。 西教寺は御供所町と上呉服町との境界に接する御供所町側の地点、その川縁にその伽藍を有し、古い町の面影を今に留める上呉服町に開く山門、梵鐘の掛かる一棟の鐘楼、その脇の石塔、『萬霊塔』と書かれた小さな万霊塔、庫裡、手水舎、境内墓所、裏墓所、そして川に背を向けて座する本堂をもって、境内を形作っている。
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鐘楼 |
手水舎 |
鐘楼脇の石塔 |
万霊塔 |
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境内墓所 |
庫裡 |
境内の見る山門 |
門前にたたずむ猫 |
古書に見られる西教寺 江戸期の儒学・本草学者貝原益軒(かいばらえっけん)の編纂による名のある史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』の『拾遺』の『博多寺院』の頁に、この西教寺についての記述が次のように現れる。『真宗東本願寺に属せり。開基の僧を勝願と云。始は中小路町に住せり。[寺説に天文十三年六月廿九日本山證如上人より本尊并實上人の影像を与へられしといへと今傳ハらす。]慶長八年二世明淳今の地に寺を造立す。寛永十九年始て良如上人より寺号を許さる。舊來西派なりしを寛文十一年東派となる。其時本山の家宰より出せる書札あり。此時末寺那珂郡馬出村徳行寺の号を許されし書もあり。今ハ廢せり。』... 慶長8年、すなわち西暦1603年。寛永19年、すなわち西暦1642年。寛文11年、すなわち1671年。 真宗東本願寺とは、今に言うところの浄土真宗東本願寺派(ないしその本山)。那珂郡(なか-)馬出村(まいだし-)とは、西教寺から御笠川をわたってしばらく東へいったところの、今の福岡市東区馬出にあった村のことである。
所在は福岡県福岡市博多区上呉服町9番4号。近場に濡衣塚などがある。
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