西海道、九州北方、福岡県(ふくおか-)の県都福岡市は、博多(はかた)の町の流れを汲む博多区を一方の、その西に接する中央区(ちゅうおう-)をもう一方の中心といえる場所に据え、その各所随所に長き歴史の痕跡をとどめて今にある。 この二つの区のうちで、近世以降のこの地を包括した筑前国(ちくぜんのくに)の主城などがあるのが、今に『天神(てんじん)』として有名な繁華街を擁する中央区、すなわち福岡市中央区である。この街のさなかを北に向かって流れるひとつの川がある。これすなわち、那珂川(なか-)。福岡市の南域の一部に接する那珂川町(なかがわ-)の山間に源流を湛える、歴史の長き二級河川。博多湾に流れ込むこの川を軸にとったときに、中央区の対岸に広がる街が、広く知られるところの『博多の町』、博多区(はかた-)の西部にあたる街である。 さて、その博多の町から、那珂川の流れと逆にその川べりを南下すると、博多区の区域を抜けた末に、南区(みなみ-)という区域に入ってゆく。その名の通り福岡市域の内の南方に位置するこの区は、その西で城南区(じょうなん-)という区域に接し、北で中央区と博多区に接し、東でまた博多区の南部に接し、南で春日市(かすが-)に接する市街となっている。 | 鐘楼を兼ねる山門 | 博多の町から南下したところの南区は、那珂川の東岸にあたる場所であるが、同時に、那珂川と同じく博多湾に流れゆく御笠川(みかさ-)の西岸にあたる場所でもある。今には都市化の波に呑まれて久しい市街。そこに、春日市との境界を間近に有する、井尻(いじり)という街区がある。すなわち、福岡市南区井尻。そのうちの最も南にあたる4丁目、『平原』という通称地名の残る場所に、一ヶ寺。
- 寺名:本行院(ほんぎょういん)
- 本尊:馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)
- 宗派:天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)
- 山号:普照山(ふしょうざん)
- 開基:湛誉(たんよ)
- 開山:和銅2年(西暦710年)
山号、普照山(ふしょうざん)、名を本行院(ほんぎょういん)という。伽藍 | 本堂 |
| 山門の脇に並ぶ石仏 | 開発の進んだ住宅街のさなかに西に向けて入口を開き、『慈音の鐘』と名付けられた梵鐘を納める鐘楼堂を兼ねる山門、その先に一宇の本堂が、ともにその正面を西の方角に向けて座する。 本堂の手前右にはそれぞれ一宇の手水舎と納骨堂、左脇には住職の住まいであろう庫裡、右脇から裏手にかけての狭い空間に観音堂などの祠、そのほか、『地蔵大菩薩』などの立像に加え、山門の脇に、本堂の脇に、境内の各所に大小数多の石仏が散在している。
本尊として祀る馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)は、およそ4.5mの立像という。境内の真裏には、平原宝満神社、通称平原神社が鎮座している。 『三井寺』の別院 遠く近畿(きんき)の地は滋賀県(しが-)の大津市(おおつ-)に、園城寺(おんじょうじ)という古刹がある。弘文天皇(こうぶん-)の子たる大友与多王の築造と伝わる寺で、天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)という歴史ある仏教宗派の総本山にあたり、その通称、『三井寺(みいでら)』。本行院はこの寺の別院、より正確には、歴史のうえで、この寺の別院となった寺であるという。歴史 | 梵鐘 | 本行院の開山は、和銅2年すなわち西暦710年、湛誉(たんよ)という僧の開基によるものと伝わる。今の佐賀県(さが-)にある背振山(せふり-)という山の座主(ざしゅ)であったというこの僧湛誉上人が、『権大寺』と称してこの地に開山したものという。 | 境内にたたずむ猫 | 以後、時を経てゆくなかで、江戸期に至って『浄土院』と呼ばれるようになり、近代開闢、明治33年(1900年)の時に、園城寺の境内から別院として移転され、今にある本行院となった。 応永21年(1414年)銘の石仏を納める雑餉隈町(ざっしょのくままち)の観音堂に、この石仏の手が折れてしまった大正10年(1921年)の際、これの修理を本行院が行ったとの記録が遺されている。 三井寺の別院となる前の宗派については定かではないが、今の宗派は本山たる三井寺に同じく、天台寺門宗である。 住職は代々、宝満山(ほうまん-)の修験道(しゅげんどう)を統括してきたものと伝えられている。宝満山とは、御笠山(みかさ-)、竈門山(かまど-)とも呼ばれる、現標高およそ869.6mにして、福岡市の南東、太宰府市(だざいふ-)の北東に位置する、古来より宝満大菩薩(ほうまんだいぼさつ)の鎮まるところとして修験道の霊峰とされてきた山である。
- 史料に見られる開基僧『湛誉』
- 開基の僧たる湛誉について、『那珂川町の歴史探訪』の著者川崎幹二は、本行院の所在地たる福岡市南区と隣接する那珂川町の歴史と絡めながらに、次のように説明している(文中の『井尻』は本行院の所在地たる井尻のことではなく、那珂川町の南部の別所(べっしょ)という街区にある同名の地区のことである)。
『井尻(いじり)の君命社(くんみょうしゃ)にお祀りされている湛誉(たんよ)上人(君命さま)は、脊振山東門寺の中心であった雲仙寺の開祖である。平成8年(1996年)11月1日、文化庁は那珂川町から坂本峠を越えて肥前(ひぜん)に往く古い道を「歴史の道百選」の一つに選んだ。県下では、「長崎街道-冷水峠越」と二ヶ所である。 湛誉上人については二つの説がある。一説は、貝原益軒(かいばらえっけん)の書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』や脊振山寺の住僧密海が著した『玉林苑』の中に出てくる。それによると、上人は和銅年間(西暦708-715年)、別所の麓寺(西安寺)におられたが、和銅2年、元明天皇(げんめい-)より太子の悩みの加持祈祷のため湛誉上人に都へ上がってくるよう詔勅があった、と書かれている。 もう一つの説として、10世紀の初めに書かれた『三代実録』の中にも湛誉上人の記事がある。それによると、上人は中国(唐)からの渡来僧で、比叡山の西塔にあった宝幢院第四代院主増命の代理として活躍。院主格を務め加持祈祷でも有名な高僧であった。渡来した当初、大宰府政庁に近い別所の井尻や雲仙寺におられたのであろう。 いずれの説にせよ、湛誉上人が別所、井尻の地に一時期おられたことは間違いないことである。 雲仙寺は奈良時代から明治初年の廃仏毀釈まで、栄枯盛衰はあるものの約1200年の歴史がある。最盛期は「脊振千坊」と呼ばれ、背振、九千部(くせんぶ)の肥前側・筑前側の山中にはたくさんの寺坊があり、僧侶や修験者の修行の場であった。英彦山(ひこやま)や国東半島(くにさき-)の山岳仏教とともに山岳仏教の聖地であった。』... 『雲仙寺』とは、霊仙寺(りょうせんじ)の書き損じであろう。この寺は、今の佐賀県の東脊振(ひがしせふり)にあたる場所にあった寺で、まさに深山幽谷といえる背振山の山腹にあって、かつてその一帯に栄えた壮大なる山岳仏教文化の中心をなすものであったという。臨済宗(りんざいしゅう)の開祖栄西(えいさい)が南宋(なんそう)から帰国したおりに茶の種を蒔いたとされるのがこの寺の庭で、このことから日本茶の栽培の起源、日本茶の発祥地とされるところでもあるが、そうした特異な歴史を辿った伽藍も今には、遺跡として往時を偲ばせるのみ。 そこに歴史を刻んだ高僧湛誉は、背振の山の北の麓、那珂川町の井尻に鎮座する乙子神社の境内で、山の護法の神とともに『君命社』として祭祀され、往時に生きた山と大地を今も静かに見据えている。
所在は福岡県福岡市南区井尻4丁目23号。最寄の鉄道駅は井尻駅(西日本鉄道)。ほど近くに浄土宗の寺院『正法寺』、曰佐小学校(ともに南西方)などがある。
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