九州北方、福岡県(ふくおか-)のほど中央部の内陸に市域を有して広がる春日(かすが)。 弥生時代(やよい-)の遺跡の数多の出土で知られるこの市は、この市の東部に位置した旧春日村に、大元を辿れば春日神社にその名の由来を持つのであるが、近代、その春日村の周囲に散在していた幾村かとの合併ののちに、町制を経て形作られた。そうした歴史のうちに春日村との合併を経た旧村の流れを汲む街区のひとつに、下白水(しもしろうず)というところがある。 今にはいくつかの区域に分かたれて存在する旧下白水村の場所は、春日市域のまさに西のはずれ、那珂川町(なかがわ-)や県都福岡市の南区(みなみ-)との境界を間近に据えるところに位置している。古書に見られる下白水村の一ヶ寺 江戸期の儒学・本草学者貝原益軒(かいばらえっけん)の著した史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』の『拾遺(しゅうい)』と『附録(ふろく)』に遺されたこの村についての描写のなかに、ある一ヶ寺についての記述がそれぞれ次のように現れる。 拾遺:『真宗西博多万行寺の末なり。昔ハ禪寺にして蓮花寺といふ山に在しを、今の地に移して一向宗となせりといふ。』...附録:『ソンダ 真宗西 佛堂二間半五間半 白雲山と號す。博多萬行寺門徒なり。此寺始は禪宗なりしを、第六世宗節といふ僧改宗すといふ。』...
読みを『じょううんじ』とするこの寺は、旧下白水村の後裔にあたる町にあるただ唯一の寺にして、元和(げんな)の代(西暦1615-1624年)からの歴史を有する、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の寺である。
伽藍 鐘楼を兼ねる山門を南の方角に向けて車道端に開き、その傍らに高き塔を擁す納骨堂、奥に庫裡、隅に親鸞の立像、そして本堂が伽藍を形作る。周囲は、往時の村の面影をとどめるいささかの古さを醸す町と、開発の進む新興住宅地とが混在ながらに在る町並となっている。 歴史 浄運寺の歴史は、室町(むろまち)と呼ばれる時代の後期、弘治(こうじ)の代にさかのぼる。当時この下白水の地に蓮華寺(れんげじ)という禅宗(ぜんしゅう)の寺があったが、元和5年(1619年)に浄土真宗に改宗し、それにともなってわずか西の場所に移転した。その移転先の場所にあたるのが、浄運寺の現所在地。つまりは蓮華寺の後裔にあたるのが浄運寺である。蓮華寺は同じく当時のこの地にあった、乳峯寺(にゅうほうじ)という寺の末寺であった。今に続く白雲山浄運寺という寺号はその改宗移転より前、弘治元年(1555年)に本願寺から与えられたものという。 筑前国続風土記に『万行寺(萬行寺)の末寺』とあるように、寛文元年(1661年)をもって浄運寺は博多(はかた)の万行寺(まんぎょうじ)の末寺となる。明治6年(1873年)にこの地を揺るがした筑前竹槍一揆の際には、その禍に遭い、堂宇もろとも記録文書類の一切が消失、一時は無住となってしまった。明治44年(1911年)に本堂の再建を見て、その後、昭和58年(1983年)の本堂の改築を経て今の姿に至っている。
史跡
前出の郷土史料の、『蓮華寺が現在地に改宗移転のとき、脇立薬師を字、間十日(まどうか)に安置し、脇立観音を字浦原に安置したとあります。』... という一節の指すこれら事物、すなわち『脇立薬師』と『脇立観音』は、それぞれ、薬師如来(やくしにょらい)を拝する薬師堂、子安観音(こやすかんのん)を拝する観音堂として、この地に今も遺されている。所在は福岡県春日市下白水南4丁目35番。最寄のバス停は西鉄バス『下白水』および春日市コミュニティバス『やよい』の『下白水南四丁目』(ともに真ん前)。最寄の電停は博多南駅(JR博多南線)。ほど近くに、日拝塚古墳(南西)、横棟天神社(北西)、古水天神社(北方)などがある。 |