浄土真宗、浄福寺跡。読みは“じょうふくじ”か。 福岡県都・福岡市、博多の町の川向こう。間近に御笠川の流れを湛える、「堅粕」(かたかす)という街区の2丁目地内。そこには大国道の南脇に公営住宅にあたる「市営ニュー堅粕住宅」が並びそびえており、その1号/3号棟の入口付近脇にぽつんとあるのがこの碑である。 碑柱の表には建立世話人の氏名が、裏には建立日であると見られる日付(昭和52年10月吉祥日)が刻まれているが、建立の経緯を伝える文字はない。そうした事物も周囲にはない。が、わずか近場にある「清水天神社」の由来書によれば、付近は昭和48年(1973年)より改良事業に呑み込まれ、それによって取り巻く環境が一変したものという。浄福寺なる寺院の移転(あるいは廃寺)はそれに伴うものであったのだろうか。 古書に見られる「浄福寺」 江戸期の儒学・本草学者貝原益軒が遺した史書に『筑前国続風土記』がある。その名の通りかつてこの地を包括した筑前国の諸事物のことが詳細に記されたこの書の、その「拾遺」の“那珂郡”以下“辻村”の頁において、この碑の前身であろう一ヶ寺についての記述が次のように現れる。
これらの記述を含む“那珂郡辻村”は、今の「堅粕」の範囲に含まれる場所の当時の村域を指している。つまりこの碑の所在地と一致していることから、同じ「浄福寺」と見て間違いはないであろう。 いずれにしても、斯様にして、往時の伽藍は跡形もなく消え去り、今にはこの碑が遺されいつかの痕跡を伝えるのみである。最寄の電停は博多駅(JR)。同市営住宅の別棟(5号棟)の敷地内に延命地蔵尊が、ほど近く北東の市営住宅の敷地内に琴姫大明神社が、川を跨いだ西方には「聖福寺」や「西教寺」などの数多の寺から成される寺町「御供所町」ならびに「上呉服町」などがある。 |