大野城市(おおのじょう-)は福岡県(ふくおか-)の中西部にありわずかの範囲をその域とする市である。春日市(かすが-)、福岡市、また太宰府市(だざいふ-)などと市域の各所で境界を有し、東に四王寺山(しおうじ-)と乙金山(おとがな-)、西から南西にかけて背振山地(せふり-)の連山、これらの山々に挟まれたところの平野に市街を形成している。その市域の中経度北端。 市域を北へと流れゆく御笠川(みかさ-)という河川がある。この川の左岸が流れとともに大野城市から福岡市へと変わる直前、平地に広がる住宅街区のさなかに、こんもりと茂る林が現れる。 あるいは神社の鎮守の森を思わせるその林は単なる雑木林にはあらず、周囲をかつて包括した御笠郡、また御笠川のその名の由来でもあり、太古の書物『日本書紀』にも小話とともにその名を残す、『御笠の森』あるいは『御笠森』と呼ばれる古の場所なのである。その内部には現在、全12種以上の樹林に加え、万葉歌碑、『御笠杜神社』なる小さな石祠、何らかの小さな像などが見られる。 市の有形民俗文化財および天然記念物に指定されたのが平成7年(西暦1995年)。それ以後のものか、木々の茂るその一角は金網で囲われ、手前にはその由来を主に説明する旨の案内の碑が設けられている。
御笠の森
『この森は御笠(みかさ)の森と呼ばれています。奈良時代に作られた『日本書紀』には、『仲哀天皇のお后(きさき)である神功皇后(じんぐうこうごう)が、荷持田村(のとりたのふれ、今の甘木市秋月字野鳥)に住む羽白熊鷲(はじろくまわし)という豪族を従わせようとして橿日宮(かしひのみや、福岡市東区香椎)から松峡宮(まつおのみや、朝倉郡筑前町三輪)へ向かわれていると、突然つむじ風が起こり、皇后のかぶられていた笠が吹きとばされてしまった。そのため、その場所を名付けて御笠というようになった。』 と書かれています。そして、江戸時代に作られた『筑前国続風土記』には、その笠が引っかかったのがこの森だと書かれています。大野城市域を含む筑紫地区は、明治二九年以後筑紫郡と改称されましたが、それ以前は御笠郡と呼ばれていました。御笠の森は郡名や川の名などの由来になっているという伝承を持っていることと、良く成長したスダジイやモチノキ、タブノキ、ヤブツバキ、ヤブニッケイ、カクレミノなどで構成され、西南日本の代表的な照葉樹林の姿を良く残していることから、末永く保存保護していくため、平成七年五月二十二日大野城市の有形民俗文化財と天然記念物として指定しました。いつまでも大事にしていきたいものです。』...
笠が飛んだ話
『武内宿禰(たけうちのすくね)以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から大野に出られ、宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、荷持田村(のとりたのふれ)をめざして南に向かわれた神功皇后が、筒井村の辺まで進まれたときに、いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。そこで、土地の人は笠がぬげたところに、「笠抜ぎ」という地名をつけました。上筒井小字笠抜の地名は、こうして起こったということです。空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、北へ北へと飛んでいって、一キロメートルはなれた山田村の森の、大きな楠の木の梢にかかってしまいました。お供の人はこの笠を取ろうとしますが、高すぎてなかなか取れません。事情を聞いた村長は森の神様にお願いするほかはないと思い、お供の人たちと相談しました。そして、森の前で神様に奉納する舞がはじまりました。すると枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするととけて、笠はひらひらと舞い降りてきました。大変喜んだ村人達はそこを「舞田(まいでん)」と呼ぶようになりました。 赤司岩雄著「大野城市の伝説とその背景」より抜粋』...
所在は福岡県大野城市山田2丁目10。筑豊飯塚市より発する県道60号(福岡県道60号飯塚大野城線)の終点付近の南脇。最寄の鉄道駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅または同線春日原駅。同街区内のほど近く南方に地蔵を安置する山田観音地蔵堂および浄土真宗の寺院慶傳寺および街区の氏神宝満神社が、その南方ほど近くに古井戸の遺構たる史跡筒井の井戸が、そのほど近く西方に、福岡県指定有形文化財を安置する雑餉隈町観音堂や、『恵比須様』と『愛宕様』を祀る雑餉隈恵比須神社がある。 |