福岡県(ふくおか-)のほど中央部にその市域を広げる大野城市(おおのじょう-)。その北端といえる場所は程近くに同県福岡市との境界を有し、ほど近く東方に御笠川(みかさ-)の流れを湛えて、今に市街地、住宅地として存在する区域である。 そのような区域のうちに、一丁目から四丁目までの区画で成される、山田(やまだ)とされる街区がある。大部分を住宅地とするこの街区の最も南にあたる区域・・・すなわち四丁目、そのさなかに、ささやかな林の茂る一角がある。 あるいは鎮守の森たることも思わせるその林の根元、神社の境内のごとき様相のその区画には、脇の民家との垣根を傍にしてふたつばかりの小堂が並び立っている。 | 『猿田彦』 | 地蔵尊(じぞうそん)―そう書かれた木の鳥居と、その左脇に立つ『猿田彦』、その奥に並び立つ2軒の木造の堂、その右に、奥行き2m、四本柱の吹抜けの籠屋(こもりや)と呼ばれる建造物。堂の内にはそれぞれ石仏などが安置されているが、その由来や歴史を示す事物は敷地内のどこにも見られない。
- 観音堂
- 並び立つ2つの堂のうちの左のものが、二仏を合祀する観音堂(かんのんどう)である。内に安置された2体の石仏は、一方が『十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)』、他方が『地蔵菩薩(じぞうぼさつ)』で、もとは別の場所にあったのが、江戸時代後期に近場の宝満神社(ほうまん-)の境内に移され、更に慶応4年(西暦1868年)、明治になる頃、神仏分離令にしたがって現在地に移されたものという。江戸期の儒学・本草学者貝原益軒(かいばらえきけん)の編纂による史書"筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)"には、十一面観世音菩薩のほうについて『宝満神社の境内に観音堂あり』というように、地蔵菩薩のほうについては『疱瘡神社社地』というように書かれている。
- 地蔵堂
- 並び立つ2つの堂のうちの右のものが、1体の石仏と『日切地蔵尊』と刻まれた自然石を安置する地蔵堂(じぞうどう)である。すなわち『日切地蔵』を祀る堂で、明治の初め頃、当時竹薮であった現在地に埋もれていたものが、掘り出され祀られ始めたものという。昭和の前期頃までは『イボ地蔵』と呼ばれていた。すなわち、疣(いぼ)の治癒に効験のある地蔵とされていたのである。
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道端に見られる境内樹 |
左の堂『観音堂』 |
右の堂『地蔵堂』 |
境内の右脇、南にあたる場所から延びる小道は、慶傳寺(けいでんじ)という浄土真宗の寺にいたる道である。
所在は福岡県大野城市山田4丁目6番21号。最寄の鉄道駅は西日本鉄道天神大牟田線春日原駅。東方近場に古井戸の遺構筒井の井戸、西方近場に『恵比須様』と『愛宕様』を祀る恵比須神社、福岡県指定有形文化財たる仏像を安置する雑餉隈町観音堂、わずか北方に薬師堂や街区の氏神宝満神社、北方近場に史跡御笠の森などがある。
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