山田薬師堂

2007年1月7日
 福岡県(ふくおか-)の内陸のほど中央部に位置する大野城市(おおのじょう-)は、市制発足より前にあっては、この地が筑前国(ちくぜんのくに)とされていた近世を含め、近代の幕開けその頃にいたるまで、一貫して御笠郡(みかさ-)という郡(ぐん)に属していた。

 この郡の名前は、太宰府市(だざいふ-)の宝満山(ほうまん-)に流れを発して北にこの地を流れてゆく二級河川御笠川(みかさ-)とともに、太古の伝説を今に伝える御笠の森という古跡に由来している。

古の森とある村の歴史
 『日本書紀(にほんしょき)』にもその名が現れるこの森は、大野城市域の北部に位置する、山田(やまだ)という街区の一角にある。御笠川の流れを東方に据え、県都福岡市との境界を間近に据えるこの山田という街区は、江戸期の儒学・本草学者たる貝原益軒(かいばらえきけん)の編纂史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』にも描かれている『山田村』という村の後裔なのであるが、この山田村が発生した元々の場所とは少々ずれた場所にある。

 山田村は元々は御笠の森の周辺の集落であったが、近くを流れる御笠川より来る水害に幾度も襲われたことで、江戸時代の初期頃にあたる時期に、ちょうど今の筒井(つつい)や雑餉隈町(ざっしょのくままち)などの街区の広がる南方のほうに村ごと移転したという歴史を持っている。雑餉隈町は福岡県指定有形文化財の仏像を安置する雑餉隈町観音堂恵比須神社などのある街区で、筒井は今に古跡として遺る古井戸にその名の由来を持つ街区、ともに大野城市内の街区で、ともに山田街区と接している。

村の菩提寺
 そのような歴史を湛えた山田街区の一角に、この街区に唯一の寺がある。名を慶傳寺(けいでんじ)という。

 浄土真宗のこの寺は、江戸時代初期の開山と伝わる寺で、所在地たる山田村の歴史と同様に、元々御笠の森の付近にあって、村の移転とともに現所在地に移転したものと考えられており、境内の裏手には延宝年間(西暦1673年-1680年)からの歴史があるという宝満神社が鎮座し、観音堂地蔵堂が並び立つ山田観音地蔵堂をほど近くに見据え、周囲を民家に囲まれながら、南東に向けてその山門を開いている。

 この寺の西脇、塀の外のところに、小さな堂がある。医薬の仏として信仰を集める薬師如来(やくしにょらい)を木造の座像として内に祀る、薬師堂(やくしどう)である。

郷土資料に見られる『山田薬師堂』
 この地に名のある史家、赤司岩雄(あかしいわお)は、その著書『大野城市巡杖記』において、この堂のことを『山田の薬師如来堂』と題して次のように説明している。

近年までは慶傳寺(けいでんじ)の山門を入ったすぐ左側にあったが、昭和47年(1972)に本堂を改築し境内の整備を行った時に、境内西側の道路に面した場所にお堂を改築移転している。堂内には像高36cmの木造薬師如来座像が祀られている。

 例祭日の毎年6月6日には山田区中の子供達を集めて無事成長を祈り、参詣する大人達は米や野菜をお供えし、慶傳寺ではガメシバ餅(もち)を作り花火を買って子供達に配り、大人も子供も一緒になって花火をあげて賑やかにお祭りをしていたが、太平洋戦争が始まって食糧不足になってきたため、昭和17年に中止したまま復活されていない。』...

 創建の時期については、詳らかでないのであろう。描かれた例祭の痕跡も今には見られない。今は物言わずたたずむ如来像のみが知ることなのであろうか。

 いずれにしても、斯様。一体の座像は確かにあった。

 古き良き慣習が時代の流れとともに消えてゆく、時に変容を繰り返してゆくなかで、流れの中洲に取り残されたかのようにたたずむこうした歴史の痕跡は、この薬師堂もまたそうであったように、消えゆく時代の残影の奥に往時の賑やかな笑い声を湛えて、いつかの子供らの想いを秘めて、そこにありつづけるのだろう。


薬師堂|福岡県大野城市|紀行道中写真館

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