福岡県(ふくおか-)の県都たる福岡市の内の東方の市街を流れる石堂川(いしどう-)は、同県太宰府市(だざいふ-)の宝満山(ほうまん-)に源を発し太宰府市域、大野城(おおのじょう)市域、そして福岡市街に流れ込み、やがて博多湾(はかた-)という内海に注ぎゆく。その流れがちょうど福岡市の博多区域を通過するとき―その左岸(西岸)に広がるのは古くより呼ばれるところの"博多"にあたる地域、その東の外れの町々。そこには、まるで町から漏れゆくなにかをそこで塞ぎ止めるかのように、あるいは川の向こうから押し寄せてくるなにかをそこでせき止めるかのように、流れの左岸にぴたりと沿う場に無数の寺院が並び在る。 濡衣塚(ぬれぎぬづか)―そう呼ばれる古跡は、斯様に在るその場のちょうど対岸、つまり、博多の町の川向こう、石堂川の右岸にあたる、千代(ちよ)と呼ばれる町―その街区の西の外れの一角にあり、流れとともに数多の歴史を湛えた水面にその孤影を映している。 "濡れ衣"の発祥点
"濡れ衣(ぬれぎぬ)"という言葉がある。一般に『いわれのない罪』というような意味で使われる言葉であるが、語義通りには"濡れた衣(ころも)"。そこに『いわれのない罪』との意味付けがなされた由来はいつ、また如何なる事象にあるのだろうか、・・・とその歴史を辿ったときにゆき着く伝説が遺りあるのがこの濡衣塚であるともいわれている。
由来と歴史
ある日、近世のもとに、釣り衣(つりぎぬ)を春姫に盗まれた、と、そう訴える漁師が現れた。いわく、春姫が夜毎にやってきて釣り衣を盗んでゆくのだという。これを受けた近世が春姫の部屋を覗くとそこには、濡れた衣を引いて眠る春姫の姿があった。逆上した近世はその言い分も聞かないままに、春姫をその場で斬って殺した。 その次の年のことであった。眠る近世の夢に現れ、二首の歌を詠む女がいた。春姫であった。その夢をもって近世は悟る。あの夜の濡れ衣は寝入る春姫のもとに後妻が着せ掛けたものであったのだ、と、春姫は無実であったのだ、と。 その後近世は春姫を葬った石堂川のほとりに7つの塚を建てて供養し、のちに自らの罪を悔いて出家し以後は肥前(ひぜん)の松浦山に暮らした。近世の夢枕に春姫の詠んだ歌とは次のようなものであった。 脱ぎ着するそのたばかりの濡れ衣は
長き無き名のためしなりけり
濡れ衣の袖よりつたふ涙こそ
無き名を流すためしなりけれ
塚は幾度かの移転を経てやがて、この地に『濡衣塚』として遺されたのであった。 古書に見られる濡衣塚
江戸期の儒学・本草学者貝原益軒(かいばらえきけん)の編纂によるこの地に名のある史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』。旧『筑前国』の領内各所の事物についての歴史、またその当時の有様が見事に描かれたこの書の紀行頁、その内の『巻之五 那珂郡上』の項目において、濡衣塚についての記述が『濡衣』として次のように現れる。『聖武天皇の御時、佐野近世と云人、筑前の守にて下りしに、京より具したる妻國にて死けり。さて此國にある女を妻としけり。先の妻のうめるむすめを継母にくみて、いかにもして此娘をうしなはんとおもひ、海人をかたらひて云、此暁來ていふべきやうは、京の娘君の此程夜な夜な我もとへましへましつるが、つりぎぬをぬすみておはしつるたべといへとて、色々の賓をとらせける。海人暁來てかねて頼みし如く、高らかに云ければ、父是を聞て大に怒り、行て見れば、むすめぬれたる衣を引かつぎてふせり。是は娘のね入たる時に継母のきせたるなりけり。父其たばかれる事を知らでたちまち娘を殺しける。さて次の年娘父の夢に見えて二首の歌を詠じける。父夢覚て娘の罪なき事をさとり、さては継母のしわざなりとて妻を送りかへし、其身は出家して肥前の松浦山に住けり。世に松浦上人とぞ云ける。それよりしてなき名をおひたるを、ぬれ衣きると云伝へ、歌にもよみ侍る。其娘の墓は、むかし聖福寺西門の側に在しを、近き世よりうつして、今は筥崎松原の西の橋ぎは、博多の東、石堂口の川の東の側小池の内にあり。大なる石をしるしとせり。父の夢に見し女(むすめ)のよみける歌
ぬぎゝするそのたばかりのぬれ衣は
ながきなき名のためしなりけり
ぬれ衣の袖よりつたふなみだこそ
なき名をながすためしなりけれ
ぬれ衣を讀る後人の歌多けれど、いたつかはしければしるさず。』...
案内板の記述
『福岡県指定有形文化財康永三年銘梵字板碑(こうえいさんねんめいぼんじいたび) 聖武天皇の頃、継母に無実の罪をきせられて死んだ筑前国司の娘を供養した墓と伝えられており、「濡衣塚」とよばれています。この石碑は板碑(いたび)と呼ばれる中世の石造物で、玄武岩(げんぶがん)の自然石を用いています。高さは約165cmで、梵時(ぼんじ)が正面3箇所に太く刻まれています。最上段は大日如来(だいにちにょらい、バン)、右下が宝幢如来(ほうとうにょらい、アー)、左下が天鼓雷音如来(てんくらいおんにょらい、アク)を表現しています。康永3年(1344)の銘が刻まれており、南北朝時代の板碑であることがわかります。この板碑は、本来は聖福寺の西門近くにあったといわれ、江戸時代に御笠川の東に移されました。そして、現在の場所へは御笠川の河川改修に伴って、2001(平成13)年に移築されています。』... 所在は福岡県福岡市博多区千代3丁目の一角。国道3号『千代二丁目』交差点のわずか東方。ほど近くに山号を濡衣山とする浄土真宗の寺院『松源寺』、『苅萱石堂丸物語』の発祥地とされる石堂地蔵尊、5体の地蔵を内に安置する新博多地蔵尊などがある。 |