大宰府学校院跡

地は九州北部、福岡県。同県太宰府市域の中枢部を東西に走る'政庁通り'とされる通りの北傍に密やかに存在する史跡が国指定史跡たる学校院跡である。

―学校院は、西国の役人を養成する機関である。大宰府政庁の東側にあるこの場所は、小字名を'学業'ということから、学校院があったと考えられている。学校院では、博士を教官として、中国の'五経(ごきょう)'、'三史(さんし)'等の書物を教科書として、政治、医術、算術、文章など、役人として要求される種々のことを学んだ。古代にあっては、通常は国(ほぼ現在の県にあたる)ごとに国博士(くにはかせ)がおかれたが、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の六国には博士はおかれず、学生は大宰府で修学した。この構造のもとでは、学生は、所定年内に必要な科目を修得した後に、試験に合格すれば役人として採用される。元年(781年)にはおよそ200人の学生が大宰府に集まったとの記録があり、学問の中心地としても機能していた大宰府の姿を窺い知ることができる...

掘立柱建物、礎石建物、井戸、木棺墓、木蓋土墳墓、製鉄遺構、溝(松崎小溝)、土墳、ビットなど、平安時代から室町時代にかけての遺構が数多く出土しており、そのうちの出土品たる平安前期の'蓮華唐花文磚'が太宰府天満宮に保管されている。

所在は、福岡県太宰府市観世音寺の四丁目の一角、大宰府政庁跡の東方、観世音寺の西方である。また脇を走る'政庁通り'をわずかに西へゆくと、その北脇に、まさにこの遺跡をその名の由来とする市立中学校たる学業院中学校がある。


古跡|福岡県太宰府市|紀行道中写真館

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