地は九州、その北部たる福岡(ふくおか)、その中央部に位置する、弥生の里とも呼び習わされる遺跡の多き地春日(かすが)の市。市の名の由来ともなった春日神社で知られるこの地であるが、県社であったこの春日宮のほかにも鎮座する神社は多数にのぼる。そのうちのひとつ、市域の西部は岡本(おかもと)地区に鎮座するのが、伊弉諾命(イザナギノミコト)および伊弉冉命(イザナミノミコト)を祀るこの宮、熊野(くまの)神社である。 岡本地区およびこれと隣接する須玖(すぐ)地区は、奴国の丘歴史公園を中心に広がる国指定史跡"須玖岡本遺跡"をはじめ、数多の弥生時代の遺跡が密集する場。この神社は斯様なる区域のさなかにあって、大小多様なる遺跡の数々に囲まれながらこの地にある。その歴史は古く宝徳年間(1449-1451年)の祖神の奉祀に始まると今に伝わるが、詳しい年代は明らかでないものという。 本殿は元和年間(1615-1625年)、清三郎、清四郎、金六、大作なる四名によって建立されたものと伝わる。これらは正徳二年(1712年)の社殿再建時に棟木である萬歳棟に遺された記録であるという。その後の記録では、貞和五年(1686年)に土製の狛犬一対が須玖村の清五郎なる人物により奉納され、宝永七年(1710年)に氏子中により絵馬が奉納され、天明六年(1786年)にまた氏子中により石鳥居が奉納され、文化十二年(1815年)には武末種安なる庄屋の手により神額が奉納され、同年には熊野宮によって石燈籠もまた奉納されたものという。 また元禄元年の記録にあって『熊野権現社須玖村枝村岡本に在り』、文久年間の記録にあって『熊野権現岡本に在り、岡本・野添・新村...』、寛政年間の記録にあって『百姓和作矛を鋳る型の石を掘り出す...』。これらの記録は、筑陽記、吉村家古文書、神社再調子、そして江戸期の儒学・本草学者貝原益軒(かいばらえきけん)の上梓による史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』などといった、いわゆる古文書にたびたび現れたものであるが、宮の縁起や由来を示すものは今には伝えられていないようである。
所在は福岡県春日市岡本7丁目。ほど近く北方に春日北小学校、岡本保育園、南西に市営若草住宅、東方にコミュニティセンターや天理教分教会などがある。 |