翁別神社

翁別神社、その正面象 地は九州北方、福岡県。県都にあたる福岡市の博多区は、その内の北部に、今も通称“博多”と呼ばれる町をとどめ、「石堂川」とも呼び習わされる「御笠川」の流れをそこに湛えている。博多湾に流れゆくこの川は、「博多の町」の一方の終端でもある。

博多の町の川向こう
 日本最古の禅寺といわれる「聖福寺」を中心として、「護聖院」、「瑞応院」、「西光寺」、「西教寺」などの、数多の寺が川沿いに並び立つ「御供所町」(ごくしょまち)、また「上呉服町」(かみごふくまち)という、ちょうど博多の町の東の外れに位置する古い町がある。この町のあたりから対岸に川をわたると、すぐさま「千代」(ちよ)という町が広がる。博多の町から見て「川向こう」にあたるこの町を更に東へ、やや北へとゆくと、博多区から隣の「東区」に移り、県の庁舎や県警察の本部、税務署、大学の施設などの、県行政の中枢機関が集中する場所がそこにある。街区の名を「馬出」(まいだし)という。

“馬出”のさなかに
翁別神社を敷地に擁する市営馬出住宅
市営馬出住宅
翁別神社を敷地に有する市営馬出住宅の1号棟
高く聳える市営馬出住宅1号棟
 「元寇」の一舞台となったことで知られる旧官幣大社「筥崎宮」をほど近くに見据え、御笠川の河口のわずか東に位置して広がるこの馬出街区に、「称名寺」、「宗玖寺」、「松月院」、「大光寺」などという、数多の寺に包囲されるかのような形で聳え立つ公営住宅がある。すなわち「福岡市営馬出住宅」である。

 さて、隣接する千代街区のそれも含めて、この界隈に数多存在する福岡市の市営住宅、そのひとつにあたる「市営馬出住宅」のうちのある一棟の敷地のなかに、ぽつんと鎮座する小さな宮がある。

 現称、“翁別(おきなわけ)神社”。

翁別神社は市営住宅の入口右手に
市営住宅の入口脇に

太古の宮
 創立は延喜3年(西暦903年)、祀る祭神は「武内宿禰」(たけのうちのすくね)、明治の代には村社に定められたものという。境内には、宮口に立つ一柱の鳥居、一宇の拝殿「鏡の井」を据え置く一宇の手水舎がある。“十六宵”(いざよい)なる姫のゆかりの地、またその物語の伝承地として、古くより鎮座する宮であるといい、境内奥部の左手の壁に置かれた一個の案内板は、その旨を宮の由来と絡ませながら次のように説明している。
翁別神社、その全貌
その全貌

―“寄せては返す白妙(しろたえ)の波に続く千代の松原は、名実共に風光明媚の海岸であった。三韓征討(西暦200年)の時神功皇后(じんぐうこうごう)がこの箱崎浜に趣かれた際に武内宿称(たけのうちのすくね)はお供して、草木が繁る大自然の小高い丘の清水湧く鏡のように清く澄んだ小池の水に舌鼓を打たれ翁別神社の銀杏(いちょう)の蔭で小憩されたのであります。それから約六百七十年後、この箱崎一帯の浦に鶴が啼き渡って葦津(あしづ)の浦と呼ばれた頃、ここに老境に入っても子が無いために嘆きの漁夫がいた。筥崎宮に日参して「子が授かるように」と祈願を込めたその甲斐あって満願の日に懐胎して元慶(がんぎょう)四年八月十六日の夕、女の児が誕生したので、月に縁の「十六宵(いざよい)」と名付けられ、神の申し子と愛で育てられた。

翁別神社の手水舎と『鏡の井』
『鏡の井』
 十六宵は美しく成長して五才の春、丘の小池に水鏡(みずかがみ)して黒髪を梳(くしけず)るのが常であった。その水は甘露の味がしたので、里人はこれを鏡の井と称した。やがて十六宵が十三歳の時、その麗しい容姿は一入(ひとしお)優れ筥崎宮に下向の宇多天皇の勅使の耳に入り、遂に召しだされ十六宵は官女=白梅姫(しらうめひめ)となり内裏に宮仕えすることになった。その後白梅姫(十六宵)の艶(あだ)な姿に想いを寄せた北面の武士高丘蔵人(くらんど)と夫婦の契(ちぎ)りを結び、都を辞して懐かしの故郷に帰った。その頃延喜(えんぎ)元年藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(ざんげん)により筑紫の大宰府に配流された菅原道真(すがわらのみちざね)公の身辺に敵の危害が迫っていたので宇多法皇は御宸慮(ごしんりょ)を煩わされ使を以って高丘蔵人と十六宵に警固を命ぜられた。その護衛に苦難の日が続いたが、やがて延喜三年菅公死後十六宵夫婦は法皇に報告のため、老松若松二人の子供を翁父母に預けて都に上り、後仏門に入って須磨のあたりで一生を終えたと云う。

 高く聳える千古の銀杏の蔭に鎮座まします翁別神社は、武内宿禰とこの土地に縁の深い松の翁と白梅姫と其の一族を祀った宮で、社前の鏡の井は、今も昔を物語るかの様に其の名残をとどめている
”...

翁別神社の宮口 翁別神社の拝殿 翁別神社、帰路参道
宮口 拝殿 帰路参道

古書に見られる『翁別神社』
 江戸期の儒学・本草学者貝原益軒の編纂によって後世に遺された史書のひとつに、『筑前国続風土記』というものがある。その書名の通り古くこの地を治めた筑前国の諸事物を隅々にわたって記録したこの書の、「那珂郡」以下「堅粕村」枝郷“金平村”の頁において、今に“翁別神社”と呼ばれるこの宮のことであると見られる、「松翁白梅嫗社」という祠のことが次のように記されている。
  • 松翁白梅嫗社
  •  小祠也。此松翁白梅嫗社いかなる人なりや詳ならす。或云白大夫を祀ると。また馬出村の内南方に博多町といふ字田あり。此地壹反九畝貮拾九歩ハ松翁の田地と云傳ふるといへり。〔按に附録にむかし高丘蔵人秦金平といひし人菅丞相の左降を慕ひ奉りて爰に住けるより村の名を金平といふよし見へたり。此傳説も何とか白大夫といふ説に因有て聞へたり。しかれとも何れもたしかなる證なけれは押て定かたし。聊今に傳ふる言を其まゝしるして後の考案に供ふるのミ。〕また村の東北に礼拝塚凉岡とてあり。高丘蔵人十六夜姫の古跡と云。共に不詳。...

 「堅粕村」とはすなわち、今の馬出街区の南方にある「堅粕」(かたかす)という街区の当時の村域を指している。同頁には次のような記述もある。

  • 鏡井(鏡ノ井)
  •  村内に在。相傳云。昔十六夜姫水鏡を見しより名つく。其後大閤茶の湯を松原にて興し給ひし時、利休この井の清冷なるを見立て點茶の水をこれより汲しといふ。かゝる名水の屠児村の内となりしハをしむへきことなり。...

翁別神社の鳥居
翁別神社
 これら内容から、この古書に現れる「松翁白梅嫗社」が“翁別神社”にあたることは確実であろう。しかし、数多の郷土史料のうちでも最も秀逸なる部類のものといわれる『筑前国続風土記』でありながら、今に示されているこの宮の由緒、すなわち、武内宿禰を祀るなどという旨は一切にして記していない。

 謎ある宮である。

  • 現社名:翁別神社(おきなわけじんじゃ)
  • 古社名:松翁白梅嫗社
  • 現祭神:武内宿禰
  • 創立年:延喜3年(西暦903年)
  • 旧社格:村社

所在は福岡県福岡市東区馬出2丁目26号。最寄の鉄道駅は『馬出九大病院前駅』、またはJRならば『吉塚駅』。

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