雑餉隈町観音堂

雑餉隈町観音堂の堂 福岡県(ふくおか-)の内陸部、ほど中央部にその市域を有する大野城市(おおのじょう-)は、市域の北で春日市(かすが-)、および県都福岡市との境界線を引いて、東に連山を仰ぎ見ながら、御笠川の流れをほど近くに湛える市街をそこに広げている。

 その北部大野城の一角に、雑餉隈町(ざっしょのくままち)という街区がある。この地で"雑餉隈(ざっしょのくま)"というときには、多くの場合、雑餉隈駅を中心とした繁華街のことを、特にその内のいわゆる風俗街のことを指すのであるが、あくまでそれは通称に過ぎず、この地名を公称たる地名として冠するのは大野城市の『雑餉隈町』だけである。この地名は古くからこの地に存在するもので、江戸期の儒学・本草学者たる貝原益軒(かいばらえきけん)の編纂による名のある史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』には、

御笠森の西にあり。宰府へゆく大路に町あり。此町兩郡二村にかゝれり。東側は當郡山田村に属す。西側は那珂郡井相田(ゐさうだ)村に属せり。此所宰府参詣の人の足を休むる所にて、酒食を品々あきなふ肆(いちくら)ある故、雑餉隈と名付けるにや。又むかし太宰府官人の雑掌(ざっしょう)居たりし所なるか、いぶかし。町の北のはしに西へゆく道あり。是より春日原を通りて、城下薬院口に行、其道近し。

 というように描かれている。この描写に現れる『御笠森』とは、雑餉隈町の北東ほど近くに史跡として今に残る御笠の森のことで、山田村とは、今には雑餉隈町の東に隣接する大野城市内の街区、すなわち山田観音地蔵堂慶傳寺などのある山田(やまだ)街区のことである。

 さて、このような街区『雑餉隈町』の一角に、福岡県の指定文化財のひとつをその内に納める、小さな堂がある。
雑餉隈町観音堂の案内板
案内板
  • 概要:観音堂(かんのんどう)
  •  本尊:聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)
  •  堂宝:木造聖観音立像(もくぞうしょうかんのんりゅうぞう)
 本尊たる『聖観世音(しょうかんぜおん)』を、応永21年(西暦1414年)の銘ありという木造の立像として、内に祀る観音堂(かんのんどう)である。
  • 郷土史料に見られる『雑餉隈町の観音堂』
  •  この地に名のある史家赤司岩雄(あかしいわお)は、その著書『大野城市巡杖記』のなかで、この堂を『雑餉隈聖観世音立像』として次のように説明している。

    山田四ツ角から西方への狭い方の追分道を50m入り、左折して30m程の所の左側2丁目5番22号に観音堂がある。ここに祀られているのは楠の寄せ木造りで像高60cmの聖観世音立像である。納衣(のうい、法衣)を着け肩を通したお姿で左手に未開の蓮花(れんげ)を持ち、困っている人が居れば今すぐにでも助けに行くという慈悲深い像である。

     この佛像については私が子供の頃に土地の古老から話を聞いていたのは、大正10年(1921)に手が折れたので曰佐村(おさむら)横手(現福岡市南区横手)の本行院で修理してもらった時に、躰内に戒名が入っていたということであったので、昭和44年(1969)に私が福岡県教育庁文化課に勤務したのを機会に、文化財専門委員の筑紫豊氏、田村円澄氏、菰田宗二郎氏に雑餉隈公民館においでいただき、雑餉隈区長岩瀬新氏外有志の方々の立会のうえ、美術院国宝修理所佛師である菰田宗二郎氏の手により解体したところ次のような躰内銘があった。

    • 大佛所慶心武蔵 〔花押〕
    • 応永二十一年八月日
    • むまのとし

     応永21年(1414)とは足利義満が京都に金閣寺を建立してから7年後のことである。

     福岡県の文化財指定基準は鎌倉時代以前のものであることになっていたが、この仏像は明確な躰内銘があり、平面な顔立ちで面貌(めんぼう)の輪郭(りんかく)・目元・口元に穏やかな円(まる)みがあり、室町時代初期の見事な作であると同時に、着衣の襞(ひだ)の線に鎌倉時代の様式を止めているということで、昭和45年(1970)5月2日に福岡県文化財に指定された。

     指定と同時に県費補助と大野城市の補助を受けて、前記菰田宗二郎氏に依頼して全面修理を行い、躰内には私が書いた次のような記念銘の木札を納めている。

    •  奉謹修理聖観世音一軀
    •  昭和四十七年一月
    •  雑餉隈聖観世音保存会
    •  筑紫郡大野町教育委員会
    •  保存会長 岩瀬新
    •  世話人 城戸常雄
    •  〃 打越龍一
    •  〃 城戸謙太郎
    •  〃 赤司岩雄
    •  〃 城戸タマ
    •  〃 山崎アイ
    •  〃 城戸ミドリ
    •  京都国立博物館
    •  財団法人美術院国宝修理所
    •  佛師 菰田宗二郎

     『筑前国続風土記拾遺』の井相田村の項に「道仙寺址村中に在、本尊観音は雑餉隈に迀(うつ)せらる、其後板付村の寺に置と云」とあるが、この聖観世音との関係は不明である。』...
  • 『六月堂』という古来からの祭礼
  •  この堂には、数百年の古より続く、『六月堂(ろくがつどう)』と呼ばれる祭があるという。前出の赤司岩雄は、前出書において、この祭についてのことを、自らの回想とともに次のように説明している。

    このお観音さまは、赤ちゃんが無事に生まれますように、そして生まれた赤ちゃんがすくすくと元気に育つようにお守り下さる観音さまである。そのため毎年7月17日に子供達だけでお祭りをしてきた。この祭りを六月堂という。

     祭りの前日の7月16日には小学5年生以上の者が集って準備をする。お堂や境内を掃除しお観音さまを前の新川に持って行ってきれいに洗って一年の埃(ほこり)を落とす。そして笹のついた孟宗竹(もうそうだけ)か杉の枝で門飾りを作り、自分達で作った万国旗を張り巡らし木の枠で作った御神灯に紙を張って字や絵を書いて、それから町内の一軒一軒を廻ってローソク代としてお賽銭(さいせん)を貰いに行くと、親達は気持よく子供達のためにお金を出してくれた。

     翌17日の祭りの当日になると町内の各家庭から自分の家で作った饅頭(まんじゅう)や餅(もち)や店で買ったお菓子などが供えられる。子供達は各家庭からもらったお賽銭で花火を買い御神灯にローソクをともして道端に並べて建てる。

     夕方になると町内の小学生や就学前の子供達が観音堂前に集まって来て、最上級生が花火と一緒にお供えの饅頭や餅やお菓子を子供達全員に平等に分配してやり、花火をあげ饅頭などを食べながら楽しい夏の夜の思い出を作っていた。

     しかし昭和30年代になると都市計画実施済の雑餉隈には、田圃が宅地化されて急激に人家が建ち込み福岡市のベッドタウン化する中で、花火による火災の心配が起って来たため、当時子供の会の指導者であった私の提案により昭和38年(1963)から提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)に変えた。

     浴衣姿の百余名の子供達が手に手に花模様の子供提灯に火をともして、雑餉隈区内を練り歩くと各家の門前には父母や祖父母が待ちうけていて、楽しそうな子供の賑やかな行列に拍手を送り上級生が担ぐ賽銭箱に賽銭を投げ入れて子供達の成長を祈ってくれる。

     この子供達の六月堂の祭は恵比須神社の千灯明(せんとうみょう)と共に、終戦の混乱時にも途絶えることなく今日に至るまで数百年も続いている行事である。

     提灯行列に切替えて子供達が町中を廻るようになってからは、観音堂のお守りは十余名の聖観世音保存会の方々がしていたヾくようになり、更に7月に限らず毎月17日の例祭日には、保存会の方々により清掃とお花やお水を取り替えてお祭りされている。近年は賽銭泥棒に荒され施錠を壊されたこともあるので交番に届出て巡回していただいているが、市内の各神社に於ても同じ悩みを抱えているようである。』...
ある伝承
 時は鎌倉(かまくら)時代。法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子であった筑後国(現久留米市)善導寺(ぜんどうじ)の鎮西上人(ちんぜいしょうにん)が、佛教伝導のため諸国を巡っている途中、雑餉隈のあたりに来て日が暮れてしまったため、近くにあった寺に一夜の宿を頼んだ。

 その寺の住職は快く承知したが、その夜中に坊守(ぼうもり)が難産のため大変苦しみはじめた。それを知った上人が安産の祈願を行うと、無事玉のような赤子を産むことができた。

 鎮西上人の母は太宰府(だざいふ)の観世音寺に7日間御参りして上人を身ごもったが、難産のため、上人が生まれるとすぐに亡くなった。このことから上人はお産をする人のことをいつも心配して安産を祈願していたので、今でも善導寺では安産を祈る岩田帯(いわたおび)を頒布している。
所在は福岡県大野城市雑餉隈町2丁目5番22号。最寄の鉄道駅は南福岡駅(JR)または春日原駅(西日本鉄道)。ほど近くに、山田宝満神社(東方)、福岡市立那珂南小学校(南西)、元町十日恵比須神社(西方)、古井戸の遺構たる史跡筒井の井戸(南東)などがある。

|福岡県大野城市|紀行道中写真館

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