地は九州北方、福岡県。 広く知られる“博多の町”の呼び名を受け継ぐ県都・福岡市の「博多区」は、福岡市の内のほど東部から南東部にかけて今に広がり、御笠川の流れを内に湛えて、古の時の痕跡をもその端々に湛えて現時にある。 この区の東南端にあたる場所に、「立花寺」(りゅうげじ)という町がある。平野のはずれの山麓の町 博多区の南東にあたる場所には、“席田平野”(むしろだ-)とかつて呼ばれた平野が広がっている。御笠川の東側に広がるこの平野は、今にはその大部分を空港の用地、すなわち福岡空港の用地とし、時に飛び立ちまた着陸する種々の航空機の轟音を上に、主に東方に連なる小山の麓に散在する集落地を抱えている。これら集落地は古くは「席田郡」という郡に属しており、立花寺もまたそうであった。“龍華寺の六坊” 古くは「立花寺村」という一個の村であった立花寺は、古くこの地に開かれていたという、ある寺に呼び名の由来を持っている。名を“龍華寺”(りゅうげじ)と称した寺である。今には無きこの「龍華寺」なる寺は、その昔、この地に六つの子院を有していたという。この地―筑前の近世の学者らの言によれば、次のような六ヶ寺がそれである。
「摂取寺」(せっしゅじ)―浄土宗、“遍照院”(へんじょういん)、“光明山”(こうみょうざん)と号するこの寺は、再興を経た“龍華寺の六坊”のうちの一坊、立花寺の町の今に残った、「攝取寺」の後裔にあたる寺である。
伽藍 小山を背後に形成された、緩やかな丘陵の集落、立花寺。その中の一角に、石塔を脇に据える三門、その先に座す一宇の本堂、納骨堂、庫裡(くり)に加え、境内に散在するいくつかの墓所が、併せて伽藍を形作る。裏手には立花寺の氏神であろう日吉神社が鎮座し、同じく“龍華寺の六坊”の一つにあたる浄土真宗「法行寺」の伽藍を間近に見据えている。古書に見られる摂取寺
開基の僧「行明」が没したのが永禄6年のこと、したがって開山はそれより前になる、・・・。永禄6年、すなわち西暦1563年。「室町時代」と呼ばれる時期である。 続けて“龍華寺の六坊”を次のように記している。
開基僧「行明」 行明は博多「住吉村」、すなわち今の福岡市博多区住吉の「妙円寺」の住職を務め、「浄土三部経」の“四十八願”に因んで四十八ヶ寺の建立を企図し、筑前から筑後の地にまでわたって数多の寺を開き、この地の浄土宗の復興に尽力した僧である。 その開基の寺は本寺「摂取寺」のほかにも、諸岡の西専寺、須玖の無量寺、今の久留米市「藤山町」にある専修寺、今の古賀市「新原」にある浄土院など、各地に遺され、今もこの世にそれぞれの時を刻み続けている。
所在は福岡県福岡市博多区立花寺2丁目7番3号。ほど近くに、西南戦争時の戦没者を供養したものという地蔵堂(わずか北方)、月隈小学校(北方)、金隈遺跡公園(南西)、仲畑地禄神社(南方)などがある。 |