福岡県(ふくおか-)のほど中央部の内陸にあって、数多の弥生時代の遺跡の出土から時に"弥生の里"とも呼ばれる地、春日市(かすが-)。 その北部、福岡平野(ふくおか-)の一角に位置し、県都福岡市との境界線を間近に引く市街地にあって、端々に古来を思わせる家並をものぞかせる、須玖(すぐ)・岡本(おかもと)と呼ばれる街区がある。 福岡平野という大地は、定説において、中国の史書『後漢書』や『魏志倭人伝』に登場するところの『奴国(なこく)』の位置であるとされる場所であり、そのうちの中心地、すなわち王都があった推定される場所が、春日丘陵と呼ばれる緩やかな丘陵地の北側に広がるこの須玖・岡本街区であるという。そのことを裏付けてきたのが、須玖岡本遺跡(すぐおかもと-)、須玖永田遺跡(すぐながた-)、須玖五反田遺跡(すぐごたんだ-)などといった、この地区に出土した数多の遺跡群。奴国の丘歴史公園(なこくのおかれきしこうえん)と呼ばれる公園は、そのような地区のさなか、東西にのびた支丘上に位置して広がる、市の管理による公園である。 概要
1979年とその翌年にかけて行われた発掘調査をきっかけとして、1992年度から1997年度にかけて、須玖岡本遺跡を中心に周辺の緑地や溜池を含めた約2.3ヘクタールの区域が歴史公園として整備された。名の由来は前述のごとき、古代のこの地が奴国の中心地であったとの歴史考証にある。緩やかな丘としてある公園を形作るのは、以下のような事物群である。
須玖岡本遺跡
弥生時代中期の甕棺墓や土壙墓・木棺墓などの埋葬遺跡からなる墓地、およびこれに伴う祭祀遺構の遺跡で、公園頂上部に設けられた覆屋(おおいや)と呼ばれる2棟の建物の中に発掘調査時の状態で保存されている。 須玖岡本遺跡自体の出土の時は明治時代に遡る。当時家屋の建設に着手した地元民により、大きな石の下に埋もれた甕棺(かめかん)が偶然発見され、その内外から、30面前後の中国鏡やガラス壁をはじめ、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)というような青銅器の武器類、およびガラス勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などの多数の品が出土。その後時は下り、昭和54年(1979年)とその翌年に行われた発掘調査において、現在の公園内にあたる場所から、116基の甕棺墓(かめかんぼ)、およびそれぞれ9基の土壙墓(どこうぼ)と木棺墓(もっかんぼ)のほか、多数の壙墓、住居跡などが検出された。調査前に墓地の一部が破壊されていたことから、既に破壊を受けたものを含めると、その埋葬遺構は本来300基以上におよんでいたものと推定されている。出土遺物としては、完全な形を保った縦6.3cm幅4.2cmの小銅鐸(-どうたく)の鋳型(いがた)や、墳墓に伴う遺物として木棺墓から出土した鉄剣などが挙げられ、いずれも春日市立埋蔵文化財収蔵庫にて保管のうえ展示されている。
大石は甕棺墓の上に標石状にのせられていたものと考えられ、発見時の記録とその後の周辺の調査から王墓が墳丘墓であったことも判明した。その埋葬の手厚さなどから奴国王の墓であると、また、有名な『金印』が指すところの"奴国王"より数世代前の王のものであると推定されている。 出土後1998年に移設され以後の姿に至っている。
奴国の丘歴史資料館 1998年に開館した延床面積2,820mの市の運営による資料展示館。『奴国の館』とも名付けられている。入館は無料で、遺跡からの出土遺物を見ることのできる『考古資料展示室』、昭和初期の頃の農家の暮らしを主題とした農具ほか生活用具を見ることのできる『民俗資料展示室』、その時々の企画展などに用いられる『特別展示室』、および収蔵庫、研修室、実習室などを備えている。
磐若池の南脇に置かれた、市の運営による社会福祉施設。
所在は福岡県春日市岡本6丁目12番。最寄の鉄道駅はJR南福岡駅(東方)。最寄のバス停留所は春日市コミュニティバス"やよい"の『奴国の丘歴史資料館前』。わずか北方に熊野神社、東方に天理教分教会、南西の弥生街区内に竹ヶ本遺跡を内に有する県営住宅竹ノ本団地、南方の小倉街区内に浄土真宗の寺院光照寺、および小倉薬師堂、小倉観音堂、また商工会館とその敷地脇の伯玄社遺跡などがある。 |