月光山長円寺

月光山長円寺の本堂  長円寺(ちょうえんじ)―この寺は、福岡県の中央部の一角を占める春日(かすが)市域の中部に所在し、大野城(おおのじょう)市域の南部に発する牛頸川(うしくび-)の流れを間近に湛えて、市名の由来でもある春日神社と小道を隔てて隣接する場にある、浄土真宗本願寺派、月光山と号する寺院である。

 寺域は狭きながらも伽藍のうちに、本堂梵鐘親鸞聖人御像、月光廟と名付けられた殿などを有する。

 真新しさを見せる外観であって古刹という雰囲気とは遠くありながらも、その巨大な五重屋根のつくりたる廟とその屋根上にそびえる多宝塔は遠方からの確認も可能な大きさで、由緒ある神社の脇に位置して確かなる存在感を示している。

 阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊とするこの寺は、その起源を天正年間(西暦1573年-1591年)にまで遡るという。

歴史
月光山長円寺の全貌
全貌
 この地の郷土史料のひとつに、春日市教育委員会の編纂による『春日風土記』というそれがある。その内の一頁において、山田稔という執筆者によって、この寺の歴史が次のように説明されている。

春日区上居屋敷に長円寺があります。寺の沿革を記録した資料は残されていません。しかし、寺の開基と浄土真宗開山については『春日大明神記録』(以下『大明神記録』という)『筑前国続風土記附録』(以下『附録』という)『那珂郡春日村墓籍明細帳』等によれば、浄土真宗前の最初の寺位置は、字惣利小字「阿弥陀寺」の所にあったといわれています。ここの所には、初代住職「長円」と多くの墓碑がありましたが、開発で消滅し、今は知る人もありません。

開基の年代は、長円墓碑に慶長八年(1603)寂とありましたので、天正年間まで遡ることができます。長円住職のことは『大明神記録』には、

「天正十四年(1586)薩州島津氏、豊臣秀吉に叛き岩屋城主高橋紹運と戦いしとき、この辺を放火す。その時春日大明神の御社、宝蔵、末社にいたるまで一宇も残らず灰となしぬ。この兵乱に此所の童に十一歳なるものを高橋氏の虜(とりこ)とせしを、父母是を知らずして、いまだ求めることを得ず。父母悲願に沈むことかぎりなし。その後三年を経て、岩屋の麓の窟(ほらあな)にかくれ入りけり。民衆はこれをあやしみけるに、十一歳の時失いたる童なり。父母是をよろこび・・・(中略)、その子孫今此邑の長円寺という真宗寺の住職なり」

と記録されています。また、寺の伝えにこれを裏付けるように、長円寺は、高橋紹運以下戦没者の追善供養のために建立されたという言い伝えがあります。

寺が浄土真宗中本山万行寺(博多)の末寺として、木仏を許されたのは、寛永十八年(1641)のことです。明治期の『筑前国一向宗西派寺院記録』によれば、「境内六〇坪、檀家三五九軒」とありますので、近郷では一番大きな寺院であったことがわかります。過去帳には、寛永四年(1627)春日神社を再建した春日村長、白水清左衛門と、寛文四年(1664)白水大池改築堤の須玖邑庄屋、武末新兵衛が記録されています。

造営物は、本堂、庫裡(くり)、月光廟会館、鐘樓堂等があります。』...

 『上居屋敷(かみいやしき)』は今の春日市域内にかつて存在した小字の名、高橋紹運(たかはしじょううん)は、今の太宰府市(だざいふ-)の域内にかつて存在した岩屋城(いわや-)の主であった人物、いわゆる戦国武将である。
月光山長円寺の鐘楼と梵鐘 月光山長円寺の親鸞聖人御像 月光山長円寺の正面象
鐘楼と梵鐘 親鸞聖人御像 正面象

 境内の西脇を走る道を"春の社通り"と今に言い、これを挟んだ西側春日神社の境内からはその屋根の多宝塔を見ることができる。この通りには当寺と春日宮のほかにも、その傍に下の地蔵が存在し、また通りから牛頸川に下った地点には地禄天神が存在し、また三郎天神九郎天神、通りをわずかに南下した地点には上の地蔵などが存在している。古跡多き地の寺院である。

|福岡県春日市|紀行道中写真館

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