福岡県(ふくおか-)の内陸のほど中央部に市域を広げる大野城(おおのじょう)。南で太宰府市(だざいふ-)、東で宇美町(うみ-)、各所で春日市(かすが-)との境界を引くこの市の、その北部は、県都福岡市の内の博多区の南方の町々と接しながら、南方より来たる御笠川の流れを脇に湛える市街として在る。 太宰府市の内の南東にある宝満山(ほうまん-)にその流れを発する御笠川は、御笠の森という、太古の伝説に基づく古跡をその名の由来としている。この古跡は日本書紀(にほんしょき)にも現れる小さな森で、今には、大野城市の指定文化財として、大野城市の市域の中、北部に位置する場所にある。その所在地名を山田(やまだ)という。 この山田という街区は、御笠川の流れのほど近く西側にあり、今に古跡として遺る古井戸の遺構にその名の由来を持つ筒井(つつい)という街区と南方で、県指定有形文化財たる仏像を内に納める雑餉隈町観音堂や雑餉隈恵比須神社のある雑餉隈町(ざっしょのくままち)という街区と西方で、御笠の森小学校のある御笠川(みかさがわ)という街区と川を隔てて東方で、仲畑地禄神社の鎮座する仲畑(なかはた)という街区と北方で接し、筑紫通り(ちくし-)と呼ばれる車道と川とに挟まれた場所にあって、範囲の大部分を住宅地として今に存在する街である。
伽藍 民家の並ぶ住宅街のさなかに南東の方角に向けて山門を開き、昭和46年(1971年)の新築を経て今の姿にいたるという本堂、一個の梵鐘を納める、昭和57年(1982年)の築であるという鐘楼、昭和35年(1960年)の建造という納骨殿、その脇に江戸期の大飢饉にともなう無縁仏(むえんぼとけ)の慰霊碑であるという『倶会一処塔(くえいっしょとう)』、ともに昭和55年(1980年)の築であるという庫裡(くり)および『和道会館』なる建造物、浄土真宗の開祖たる僧親鸞(しんらん)の立像『親鸞聖人尊像』、本願寺の中興の祖たる僧蓮如(れんにょ)の立像『蓮如上人御像』などが、境内に並び立ち伽藍を成している。真裏には延宝年間(西暦1673年-1680年)からの歴史を持つという宝満神社(通称宝満宮)、西の塀の脇には、かつては境内にあったものという薬師堂がある。
歴史
この地に名のある史家赤司岩雄(あかしいわお)の調査によると、元禄14年(1701)の『寺院記』、寛政2年(1790年)の『筑前寺院人別帳』、及び、江戸期の儒学・本草学者貝原益軒(かいばらえきけん)の編纂による史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』の『附録』と『拾遺』や、明治時代初期に刊行された『福岡県地理全誌』などにはすべて、『御笠郡山田村 慶傳寺、浄土真宗西、中本山博多万行寺』と書かれているものという。慶傳寺自身の保存する古文書は、元禄年間頃(1688頃)からの過去帳と、安政6年末(1859)8月5日付の旧御笠郡各寺院の『御法品目書上記録』など。御笠郡とは、今の大野城市域を含む一帯をかつて包括した郡(ぐん)のことである。
所在は福岡県大野城市山田4丁目7番16号。最寄の鉄道駅は、春日原駅または雑餉隈駅(いずれも西日本鉄道)、南福岡駅(JR)。ほど近くに、県営住宅山田団地(北方)、大野城市立大野北小学校(東方)、福岡市営西春町住宅(南西)、福岡市立那珂南小学校(南西)、元町十日恵比須神社(南西)、黒男神社(南方)、日蓮宗の小寺院妙教寺(南方)などがある。 |